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札幌地方裁判所 平成6年(人)2号 判決

請求者

甲野夏子

右代理人弁護士

馬場正昭

拘束者

甲野一郎

甲野太郎

甲野春子

右三名代理人弁護士

藤井正章

被拘束者

甲野秋子

右国選代理人弁護士

吉川正也

主文

一  本件請求を棄却する。

二  手続費用は、差戻前後を通じて請求者の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被拘束者を釈放し、請求者に引き渡す。

二  手続費用は拘束者らの負担とする。

第二  事案の概要

一  事案の要旨

本件は、別居中の夫婦の妻が、夫及びその両親に対し、夫が妻の許から連れ出し夫の両親とともに監護養育している長女について人身保護法に基づいて釈放及び引渡請求をしている事案である。

二  争いのない事実

1  当事者ら

請求者と拘束者甲野一郎(以下「一郎」という。)は、平成四年一月二八日に婚姻し、そのころから札幌市内の住居で同居し、平成五年二月一九日、被拘束者(以下「秋子」という。)をもうけた。

2  拘束者らによる秋子の拘束

しかし、請求者は、拘束者一郎との婚姻が破綻したとして同拘束者との離婚を決意して、平成五年五月一五日、秋子を連れて家を出て、北海道苫小牧市内の請求者の親戚宅において住み始めた。

拘束者一郎は、平成五年五月二二日、苫小牧市内の請求者の親戚宅を訪れ、同宅に居た秋子を連れ去り、それ以来秋子を肩書地の実家において、両親である拘束者甲野太郎(以下「太郎」という。)及び同甲野春子(以下「春子」という。)とともに秋子を監護養育して拘束(以下「本件拘束」という。)している。

三  争点

本件拘束に違法性(子の幸福に反することの明白性)があるか、が主たる争点である。

(請求者の主張)

1 監護環境の比較

(一) まず、請求者は、今後請求者の実母方に同居して実母の援助を得て秋子を養育する予定でいる。

請求者の実母は、心臓機能障害があるものの、日常の家事を行うことには支障がなく、実子を数名養育してきた経験がある。

請求者がその実母と同居した場合は、両名に対する公的扶助として約二〇万円の援助を受けられるほか、拘束者一郎との離婚が実現すれば、約二万円の母子手当をも受けられ、経済的な不安はない。

請求者は、当分の間、秋子を母親の愛情をもって直接養育する意思であり、長時間に及ぶ勤務に就く予定はない。

(二) これに対し、拘束者一郎は、自動車販売会社の代表者であって、今後とも家庭外で勤務を続けるところから、秋子を自らの手で養育することは不可能である。

また、拘束者太郎及び同春子も、各自仕事を持っているうえ、その長男が同居していることから、秋子の養育に専念することはできない状況にある。

2 秋子の幸福

秋子は、未だ一才になったばかりの女児であって、母親自身の監護養育を必要とすることは明らかであり、不当に秋子を奪取した父親の拘束者一郎には監護者としての適性はなく、請求者による監護を受けることがその幸福に適う。

(拘束者らの主張)

1 監護環境の比較

(一) 拘束者一郎は、現在その肩書住所(実家)においてその両親とともに秋子を監護養育しており、今後もこれを継続する意思である。

なるほど、拘束者一郎は、自動車販売業を目的とする有限会社Sを経営していて日中は仕事に就いているが、会社の所在地は、自宅から約1.5キロメートルの距離にあり、昼間でもできるだけ自宅に戻って秋子の監護を直接行うように努めている。

拘束者らの住宅は、二所帯用に建築された建坪が一三〇平方メートルの二階建の建物であって、秋子の養育には何不自由もない。

のみならず、拘束者春子は、平成五年五月二三日にはかつて勤めていた会社を退職して、家事に専念しており、秋子の養育の手伝いをしてきている。

経済的には、拘束者一郎は、毎月約三〇万円の収入を得ているほか、拘束者太郎は、鉄工場を経営して毎月約五〇万円の収入があり、拘束者春子も、不動産収入だけでも年間四九五万円余の所得があるし、現在では、拘束者太郎及び同春子の長男・幸夫は、実家を出ており、秋子を養育するうえでの支障はまったくない。

(二) 請求者の実母は、身体障害者として生活保護を受け、拘束者らの住宅と比較してはるかに手狭な住居に居住しており、秋子が請求者とともにこれに同居するときは、経済的にも、生活環境上も、不安定な要素が多い。

2 秋子の幸福

秋子は、一才余りの幼児であるが、拘束者らによる監護養育によって、現在まで順調に成長しており、監護上何の問題もない。母親といっても、請求者は、婚姻当時から宗教活動を何よりも優先して行ってきたため、秋子の監護すらおろそかにしてきた。監護環境の不安定な点や請求者の実母も同様に宗教活動に熱心であることなどからして、秋子を拘束者らの監護の許に置くことこそ、その幸福に適うことが明白である。

第三  争点に対する判断

一  証拠(〈省略〉)によると、次の事実が一応認められる。

1  請求者は、父乙山太郎、母乙山花子の長女として、昭和四〇年一〇月二一日に北海道岩見沢市で出生した者、拘束者一郎は、父甲野太郎(拘束者)、母甲野春子(拘束者)の二男として、昭和四二年六月二七日に北海道札幌市で出生した者である。

拘束者太郎(昭和一〇年二月七日生まれ)は、拘束者春子(昭和一四年四月一四日生まれ)とともに、肩書住所地に住んでいる。

2  請求者は、平成三年ころ、札幌市内の賃借アパートで独り住まいをして、株式会社札幌そごうに店員として勤務していたが、同年九月、拘束者一郎と知り合い、同年一〇月には同拘束者が賃借していた札幌市〈住所略〉のマンションで同棲生活を始めた。

その後、請求者と拘束者一郎は、お互いにそれぞれの親族に相手を紹介するなどしたのち、平成四年一月二八日に婚姻の届出をし、そのころから札幌市〈住所略〉で結婚生活を始めた。

3  拘束者一郎は、かねて中古自動車の販売業を行っていたが、平成四年五月、これを会社組織とし、請求者においても、同拘束者の会社経営を手伝うため、同年四月三〇日付で札幌そごうを退職した。

しかし、請求者と拘束者一郎とは、そのころから争いが絶えなくなり、両者の気持ちが徐々に離れて行った。

4  そのような状況にあった平成四年六月末ころ、請求者は、子供を懐胎したことを自覚し、その後も拘束者一郎との間に離婚の話が出たりしたが、平成五年二月一九日、札幌市内の病院で秋子を分娩した。

請求者は、同病院に入院した後実家でしばらく静養し、同年三月一〇日すぎころ、秋子と一緒に自宅に帰った。しかし、その後も、拘束者一郎とのいさかいが絶えず、同年五月一五日には、夫との離婚を決意して、秋子を連れて自宅を出て、北海道苫小牧市内の実母の妹夫婦の許に身を寄せるに至った。

5  請求者が秋子を連れて家を出たことを知った拘束者一郎は、それから請求者らの行方を探し回り、同月二二日、請求者らが苫小牧市内にいることを知り、すぐに請求者の伯母宅に赴いて、秋子を請求者から抱き取り、そのまま札幌市内の実家に連れ戻った。

6  秋子は、体重が三四四六グラムで出生し、平成五年三月一七日の一か月検診時では、四〇四五グラム、同年四月一六日の二か月検診時では、五一〇五グラムと体重もまずまず順調に増加して、健康に成長しており、拘束者一郎が引き取った後においても、同年六月二八日には約七一〇〇グラムに、同年九月二八日には約八五〇〇グラムと体重が増え、運動機能等の障害もなく心身ともに健康に育っている。

7  請求者は、現在、秋子を引き取る場合は、肩書地の実母の賃借アパートの部屋に同居して監護養育する意思である。

請求者の実母の住んでいるアパートは、全体としては、二階建の集合建物で、その賃借部屋は、玄関に接した7.5畳とその奥の七畳の部屋からなり、他に住宅用施設はない。

請求者の実母である乙山花子は、昭和六〇年に夫をなくし、自らは平成三年一一月二九日、僧帽弁閉鎖不全症で手術を受け、その後は一級の身体障害者として生活保護等(一か月約一四万円)を受けている。同女は、週一度の割合で通院しているが、日常の生活は独りで行うことができ、育児もできるとの診断を受けている。

請求者は、現在、スーパーマーケットのレジ係として臨時的に勤務しているが、毎日四ないし五時間働いて、時給五七〇ないし六〇〇円の賃金を得ている。現状でも、請求者が勤務している間は、実母に秋子の監護を委ねることになるし、今後、秋子の成長を見て、さらに長時間の勤務をする職を得たいと考えている。

8  他方、拘束者一郎は、現在、肩書地の実家に拘束者太郎及び同春子とともに住んで、秋子を監護養育する意思である。

拘束者一郎の実家は、約二〇〇平方メートルの敷地に建築された延床面積が約一三〇平方メートルの二階建の建物であり、駐車場も併設された一戸建住宅である。

拘束者太郎は、鉄工場を経営して毎月約五〇万円の収入があり、拘束者春子も、不動産収入だけでも年間四九五万円余の所得がある。また拘束者一郎は、自動車販売業を目的とする有限会社Sを経営し、毎月手取り約二五万円の収入があったが、平成五年一〇月末に休業し、同年一一月一日からは拘束者太郎の経営する前川機械製作所に勤務し、毎月二八万円(税金、社会保険料等を含む)の収入を得ている。同拘束者は、事業上の債務として千万円単位の借入等債務を負担したり、請求者名義のクレジットカードを用いて数十万単位の債務を負担したことがあったが、これが家計費を圧迫して生活が不自由になる程切迫することはなかった。なお、拘束者一郎が平成五年四月二七日に北門信用金庫から借りた八〇〇万円は同年一一月一〇日までに、平成四年六月八日に北海道銀行から借りた二〇〇〇万円は平成五年一二月一日までに、それぞれ全額返済されている。

拘束者春子は、平成五年五月二三日、それまで勤めていた会社を退職して、家事に専念し、秋子の養育の手伝いをしてきている。

以上の事実が一応認められる。

二  以上の疎明事実によると、本件は、夫婦の一方(妻)である請求者が他方(夫)及びその両親に対し、人身保護法に基づいて、夫婦の共同親権に服する、一才余りの幼児である秋子の引渡を請求しているものである。

そこで、拘束者らによる秋子の監護・拘束が子の幸福に反することが明白であるかどうかについて判断する。

前記の疎明事実及び一件記録によると、請求者、拘束者一郎のいずれにおいても、母または父として、長女秋子に対する愛情を強く抱いており、その程度についてはにわかに強弱を断じえないというほかない。

そして、秋子が一才余りの女児であることにかんがみると、母親の直接的な監護のあることが望ましいことはいうまでもない。しかし、先に説示したとおり、請求者が秋子を引き取った場合でも、現状では一日五ないし六時間程度、将来的にはそれ以上の間、請求者の実母にその監護を委託することになることが予想されるのである。請求者の実母は、心臓の機能に障害がある一級の身体障害者であって、現在は、日常の生活は独りで行うことができ、育児もできるとの診断を受けてはいるが、秋子の成長とともに病気・事故、その他突発的な出来事などが発生した場合には、その監護力に不安のあることは否定し難い。

これに対し、拘束者一郎が秋子を引き取った場合、同拘束者が秋子の監護に当たる時間は、請求者のそれよりも短いものとならざるをえないが、拘束者一郎に代わって、健康上の心配があるとは窺えない拘束者春子により、十全な監護を期待することができ、実母による愛情溢れる専心的な監護には匹敵できないとしても、請求者及びその実母による監護と比較してさほどの遜色があるとは窺えない。

これに加えて、拘束者らの居住環境及び経済状態は、請求者側のそれと比較して格段に優れたものというべきである。

以上のほか、一件記録に現れた事情等を考慮しても、拘束者らによる秋子の監護・拘束がその幸福に反することが明らかであるとは到底いえない。

してみると、拘束者一郎らによる秋子の拘束が、権限なしに行われていることが顕著であるとはいえないから、本件拘束が違法でその違法性が顕著であるとは認められない。

第四  結論

以上の次第で、請求者の本件請求は、その余の判断をするまでもなく、理由がないから失当として棄却することとする。

(裁判長裁判官大出晃之 裁判官菅野博之 裁判官寺西和史)

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